ねとすたシリアス第1回後編


きたきた。
公共権のくだりで、「ネットってそんなに広いもんだろうか」と思った。
確かにTHE INTERNET全体は広いし、そのサブセットであるWWWもまぁまぁ広い。少なくとも全世界の電化された領域に広がり、数十億人が見ていることは堅い世界。でも議論をしよう、となると、ほぼ無限に近い広がりを持つようにすら思えるWWWからすれば、明らかに限定的なPVを持つ特定のサイト上でやるしかない。ブログ上でトラバ駆使して、とかTwitterでfollowしまくってとか、そういうことをしてさえも、言語でまず大枠が限られ*1、ホスト文化圏(mixi vs. プロフ vs. はてなー vs. アメーバ vs.……)によって区切られ、それとは別にユーザ文化圏(オタク vs. リア充や、オタク内であってもジャンル間の隔たり、技術者 vs. 文化人等)で分類される。もちろん異なる文化圏で交わることは多々あり、一人の人間であっても当然複数の属性を持ちうるけども、それが全世界的な広がりを持つとはあまり思えない。
ニコ動に限れば話はもっと単純で、再生数・コメント数の多い動画では、確かに人が多すぎてまともな議論にならない。しかし数十・数百再生のレベルでは、ブレストとしても意見をまとめる流れとしても、まぁまぁいい具合ではないだろうか。
それこそ少人数での議論が可能なアーキテクチャなんて、インターネット黎明期からある。内輪ならIRCとか、ある程度範囲を広げたWWWベースでも、CGIチャットルームなんてのは本当に初期からあったのではないか。Ajaxなんて全然存在もしなかった時代に、METAタグで数秒ごとにREFRESHさせて、Webブラウザだけでチャットしていたんだ。ずっと「ネット」でなく「アーキテクチャ」で語るべきと言ってるのに、何故ここだけ「ネット」にしてしまったのか……ちょっと恣意的じゃないの?
街のカフェで内輪で盛り上がるのが原点、というが、「ネットが広すぎる」というのは、オープンカフェで議論を交わしてると通行人が多すぎて、あるいは国内でその瞬間何の関係もなく会話している人たちが数千万人いるから議論にならない、と言ってるように聞こえる。なんか的外れじゃないか。そこだけ引っかかった。
単にぼくが文脈を誤読してるだけか('A`)


さておき、これは一度前編から通して見るべきかもしれん。でも長いからなぁ……。見直すよりも本買って読む方が役に立つのかもしれないし。
文系の頭のいい人達ってのは本質を突いてくるからすごい。技術者・科学者は自然科学における本質を追究しているが、彼らは人間の本質を見ようとしているのか。「人間」というと曖昧だなぁ……なんて表現するんだろう。人格でもあるし、個人の社会性でもあるし、社会の社会性(?)とかでもあるのかなぁ。なんか定義されてない語を並べてるだけになってしまったけど。
後編その7あたりからの話は本当にぞっとする話で、しかし「あの話にぞっとするかどうかはかなり個人差があって、現在の若者にとってはぞっとしない方が優勢なのかも知れない」と考えると更にぞっとする。
気を遣いすぎて逆に行動できないというのは確かにそう思う。少なくともぼくはそうだし、他の人も少なからずそうなのではないか。しかし……だからといってスカウターは……
人が何を考えてるか見えないから怖いし、見えたら見えたでそれは非常に(非情に)恐ろしいことなんだ。まさにパンドラの箱

*1:特に日本語はそういう宿命にある。日本のアニメが好きで日本語覚えましたなんてのは、全体からすれば、特に英語と比べたときには、マイノリティに過ぎないのだから。