信仰心のマッシュアップ

エホバの証人と、いわゆる二世と、背教者と。
エホバの証人と、いわゆる二世と、背教者と。 続き
エホバの組織ってこうなってるのね。
読んでて、なんとなく日本人っぽいコミュニティだなぁと思った。もろにムラ社会じゃん。外国のもこんな感じなのかな。だとしたらすごい。ムラ社会って概念は西欧的な文化とは馴染めないと思ってたから。
ムラ社会であるが故に、最近の若者には疑問に感じる部分が多いだろうと思うし、「村八分を恐れる親が子を熱心に教育」みたいな構図も納得できる。
しかも宗教議論禁止ときたもんだ。そりゃ組織の硬直化もするし、場当たり的な対策しか出せないだろう。なかなか難儀な宗教ですな。


個人的には、そもそも組織を前提とした宗教ってものに違和感がある。
日本であれば古くから寺社が地域のコミュニティの中心になってきたし、欧米でも教会がその役割を果たしているだろう。他の仏教圏とかイスラームは知らんけど、だいたい似たようなもんなのではないかと思う。
しかし、そういう感覚には前時代的なものを感じる。とはいっても宗教が力を失ったわけではなく、交通や通信の発達で形成できるコミュニティ自体の大きさが大きくなってしまったのが原因だと思う。
そういう状況下での信仰は、よりピュアなものにならざるを得ないというか、小さい地域単位の宗教組織をよりどころにするのではなくて、教え自体*1を自分で考えて、自分なりの宗教観を持つしかない、と思う。
私の実家は日本人には典型的な神仏混淆であり、家には神棚も仏壇もあって、両方にお供えをしていた。悪く言えば節操がないわけだけど、でもそういうスタンスが逆に現代的なのかなぁ、とも思う。ある宗教が絶対的に正しいからそれを信じるというよりは、自分の生活の中で納得して信じることのできる部分を取捨選択できる、というか。
まぁそういう思想はアブラハムの宗教じゃ絶対に許されないんだろうな。向こうに言わせれば八百万の神なんて有象無象のデーモンに過ぎないんだろうけど、でもこっちから見れば(自称)唯一絶対創造神なんざ神様の1柱/∞に過ぎないわけで。
信仰心もいいとこどりでマッシュアップすればいいんですよ(´з`)y-~

*1:「教義」という言い方は組織の偉いさんが都合良く解釈した、みたいなイメージがあってあまり好きではない。