何のために

テストも終わってほっと一息。
先日、「カラオケでオクターブ下げて歌うとなんかカッコ悪いというか雰囲気出ないから嫌だ」的なことを言ったら、「(私)さんって雰囲気を大事にしますよね」というようなことを言われた。
これ、ちょっと目からウロコだった。カラオケに限らず、そもそも音楽って雰囲気を出すもんじゃないんだろうか?


以前にも書いた気がするが、音楽というのは「音の羅列を通して作曲者・演者の持っている心象を伝える」ものだと思っている。いかなる楽器・ジャンル・音階・思想の音楽も、これだけは共通なのかな、と。どんな時代のクラシックも、ジャズも、ロックも、アンビエントも、民族音楽も、何かを伝えたくて、その表現手段として音の並びを選んでいるのではないかと。音の並びといっても、単純なメロディラインであったり、和音の効果であったり、音声言語というものを通したより高次の表現であったりと、様々なものを組み合わせている。
そういった前提で、それを達成するための手段として、私は曲を演じる上で、

原曲の雰囲気をできるだけ忠実に再現する

ということを意識している。これは、

原曲をできるだけ忠実に再現する

ことと必ずしもイコールではない。ただ単に音の並びとして再現しようとしても、やはり限界がある。原曲が醸し出す雰囲気・伝えたい心象の表現に比べて、どうやっても鈍くなってしまう。
それを克服するために、曲の持つ心象を自分の中で一旦咀嚼して再表現する。参考にした演奏とは違った表現になっても、伝えたいことが伝わっていればそれでいいという方針だ。
もっとも、自分の「咀嚼力」にもやはり限界があるし、表現力にももちろん限界があって、原曲の演奏に至れるわけではないのだけど。それでも、ただ楽譜をなぞって演奏するよりは余程良いと考えている。


話を戻して、原曲の雰囲気を再現することを重視しないのならば、一体何を目指して演じるのか?

  1. 楽譜に忠実に演奏する(技術的目的)
  2. パフォーマンスとしてのエンターテイメント重視(ウケ狙い)
  3. 独自の解釈による演奏(自己表現の重視)

思いつくのはこのあたり。しかし、1.と2.については、実は「原曲の雰囲気を再現する」という方針と対立するわけではないと思っている。
雰囲気を読んで再度出すというのは、楽譜の「行間を読む」というようなイメージなので、楽譜通りの演奏にプラスしたものだと思う。結局は技術的な限界があって、完全にはできないのだけど、それを目指すことは悪くない。
ウケ狙いについて。そもそも演奏する曲がそういう目的であった場合、全く違う方法でウケを取ったとしてもそれはそれで問題ないんじゃないかな、と思う。ただ、あまりにも違いすぎるのも考え物。落語のような「ちょっと考える」笑いと、いわゆるお笑い芸人がする下品な笑い*1とでは、やはり目的が違う。TPOに合わせたウケがあると思う。
3.について。実はこれが理想だと思っている。ただ私の場合は、自分の中にそこまでの音楽性も技術も持っていないので、代案というかサブセットとして「原曲の雰囲気」を狙っている。ここでいう「音楽性」は、「伝えたい心象の具体性」+「音の並びに替える力」であって、精神的な側面・知識量・センスの問題を含んでいる。私は他人と比べると感情の起伏が小さい方だし、感情の分化も進んでいないところがあると思っているので、精神的な問題は大きい。「心象→音の並び」変換は、結局は「引き出し」の量と使い方なのかなぁと。既存のものでもオリジナルのものでも、引き出しは多いに越したことはないし、それをどう使うかがセンスになるんだろうが、私の場合は根本的に引き出しが足りない。センスを発揮する以前の問題だ。まぁ媒体は違えど、文章表現を見るにセンスもそれほど無さそうだが。


というわけで、結論としては「もっと思ってることを伝えようぜ」ということになるのだけど、そもそも音楽ってものを人と関わるためのツールとして使ってる部分もあって、そっちを重視すると、ともすれば演奏自体は比較的どうでもよくなってしまったりする。音楽を音楽として楽しむのか、別に音楽じゃなくてもいいのか、それは人によりけりなんだろう。

*1:別にそういう笑いを否定はしない。上下関係ではなく、役割の違いの問題。