ともだち

一緒にダベってて楽しいなら、それが「友人」でいいじゃないか。


昔の私は、
「一緒にいて楽しい程度では真の友人ではない。困ったときに助け合える、悪いことは悪いと指摘できるのが真の友人だ」
なんて戯言を真に受けて、自分には真の友人はいないなどと考えていた。
しかし、違う。それは違う。「友人」という概念が高尚であるべきではないのだ。
高尚であるべきは自分の精神。「友人」と向き合う自らの考え方の方だ。
友人が困っていたら助ける。友人の悪いところは指摘する。そういう姿勢を持つこと。「友人」というカテゴリを制限するのではなく、自分の行動を広げるべきなのだ。もちろん、助けるにしても限度があるし、場合によっては自分は直接動かずに、もっと適した人に頼んだりすることも必要だ。悪いことを指摘するにしても、それだけで終わらず、きちんとフォローするべき。「友人」に対して、それくらいのことをできるような優しいココロを持つことの方が重要だ。


一方で、こういう考え方は「バカを見る」タイプの考え方だ。利用されるだけ利用されるタイプ。しかし、相手が「利用するタイプ」だろうとそうでなかろうと、養うべきは相手の思いをくみ取る洞察力であることに変わりはない。
思えば件の戯言は、小中学校の道徳の授業でくり返し発せられたように思う。意図としてはこのエントリで書いたようなことが狙いだったのかも知れない。しかし私は違う受け取り方をした。少なくとも、表現が悪かったか言葉が足りなかったのは確かだ。
たとえバカを見るハメになったとしても、「道徳」としてはこういう教え方をするべきではなかったのか?
現実的妥協は確固たる理想があってこそできるもの。理想が最初から低いのでは、もっと低いところで妥協してしまう。


そういう振る舞いができないから、自分には友人を持つ資格はない、などと考えるのももちろん的外れ。実際に、すべての「友人」に対してそういう振る舞いをしていては生きていけない。そこに「現実的妥協」が入ってくるのが当然。あくまでも理想論だが、それを目指す姿勢を忘れてはいけないと思う。