恋空

忍空の同人誌だと思ったのは俺だけではないはず!


いろいろと評価が分かれるらしいですが、本文もレビューも読まずに思ったこと。
文章には想定読者というものがある。これはどんな文章でも必ずある*1
歴史小説なら、歴史をある程度知っている読者を想定するだろう。過去の戦争で、勝敗が逆転するようなifモノはいくらでもあるが、実際の経過と結果を知らなければ、それを本当に楽しむことは出来ない。
本歌取りされた和歌は、既存の歌についての知識が十分あることを前提に詠まれている。知らなければ、その歌の本当の面白さを理解することは出来ない。


さて、逆に考えて、あるグループの人びとを読者として選んだ場合、その人たちを楽しませる文章を書くにはどうすればいいかというと、その人たちが持っている知識・理解力に合わせて、「ほとんど知ってるし理解できるけど、ちょっとだけ新しい」ものを書けばいい。と思う。
児童文学の場合。対象年齢以下で習わない漢字が続出するような文章は御法度である。何しろ読めない。また、高度な科学知識あるいは歴史知識を必要とするものも論外だ。彼らに読んでもらうには、彼らの言葉で書かなければならない。
では、対象が、普段本を読まないし、国語もそんなに好きじゃない、でもケータイはよく使う、という人びとだったら?
彼ら(彼女ら?)には、恐らく

  • 難しい漢字は読めない
  • 熟語もほとんど読めない
  • 慣用句もほとんど通じない
  • 婉曲的表現も通じない
  • 正しい日本語よりも、自分たちの使う慣用的な表現を、より「正しく」認識する

だろう。ちょっとバカにしすぎかもしれないけど、まぁこんなもんだ、と仮定する。
そうすると、文章として、使える表現はものすごく限られたものになる。しかも、迂闊に「日本語的に正しい」表現を使えない。基本的に通じないし、下手をすると違う意味で捉えられてしまう。
もう一度書くが、「彼らに読んでもらうには、彼らの言葉で書かなければならない。」のである。
こう考えると、ケータイ小説が「日本語がおかしい」とか、「表現が稚拙」だとかいう批判は的外れなのではないかと思えてきた。著者が実際にどう考えているかはともかく、編集者の視点やマーケティング的な視点では、そのようなことは最初から織込み済なのだ。きっと。
更に言えば、普段本を読まない人というのは、出版業界的には消費者の空白地帯であり、そこに食い込めるとすれば大きな利益が得られる可能性を持っている。狙わない手はない。


というわけで、真っ当な文章だと思って批判しても意味ないんじゃないかなーと思いました。あれはあれでアリなんじゃないかと。
まぁ読みませんけどね。地雷とわかってて踏むほど俺はヒマじゃないんだよ。スイーツ(笑)

*1:ちなみにこの日記の想定読者は「俺」なので、適当です。本当はこんなエントリ書く資格なぞありません。