与太話の奔流

生きる意味など幻想に過ぎず、そこにはただ脳という名の肉塊内部の電場のうつろいによってホモ・サピエンス種と呼ばれる雑食哺乳動物が生きているという事実があるのみであるならば、では幻想の起源とは何なのか。幻想を求め、幻想を抱き、幻想に生きる。ヒトは幻想なしで生きられるのだろうか?
思惟を限りなくアトランダムなただの電気信号であると定義し、そこには意味など無いとするならば……
生きる意味が必要不可欠なのはそれが幻想だからなのか。幻想であるがゆえに、個々人で違い、あるいは定義できず、表現できない。明確にできない。はっきりと理解しているヒトもいる。していないヒトもいる。
生きる意味が無い。価値が無い。それは、見失っているだけだとはよく言うけれど、それはただ幻想を持てなくなったのかもしれない。
現実を見れば、生きる意味など必要なく、ただ毎日をがむしゃらに生きるしかないのだろう。子孫を残すため。愛するヒトと生きるため。敵を滅ぼすため。これらに意味は無く、ただ本能の要請に従っているのかもしれない。
しかし、こうも取れる。子孫が繁栄するという「幻想」。愛するヒトと幸せに暮らすという「幻想」。敵を滅ぼし、安寧を得るという「幻想」。ヒトは常に幻想を求めて生きている。
幻想はしばしば現実から乖離する。現実の要請にしたがって育まれた幻想も、いつしか現実から離れ始める。一度流れ出した水は大海に流れるまで止まることはない。現実から降り落ちた幻想も、混沌の海に至るまで次々と他の幻想を呑み込み、ついには混沌そのものとなる。

まぁあれですよ。意味なんかないってことです(違
うーむ。もうちょっと考えてることを整理して正しく表現することを身につけないとなぁ……