思想地図β vol.1 対談から考える非実在青少年問題

思想地図β vol.1

思想地図β vol.1

巻頭対談、巻頭言、アニメージュオリジナル特別版だけ読んだ。残りはおいおい読む……かもしれない。


p. 7

いままで思想や批評に、そして言論一般に関心を抱かなかった人々にこそ、手にとってほしいと願っている。

とのことで、実際ぼくはそういうカテゴリに属するのではないかと思う。およそ思想・批評・言論といったものに関係する書物としてはほぼ初めて購入した。
こういった分野に対する関心を最初に持ったきっかけは、おそらくは、ねとすたシリアスで、その後、ロージナ茶会ちゃんねるなどを見つつ、それっぽい人たちをtwitterでfollowしつつ、のような感じ。


この本を買った最大の動機は、単純に巻頭対談を読みたかったから。(一部の)世間で物議を醸す例の条例について、提案側である都・クリエイター・批評家・未成年の子を持つ親であるところの当事者達はどう思っているのか知りたかったから。
それで、読んでみたのだけど……


まず感じたのは「意味が分からない」だった。一番最初の東氏の(座長的な立場としての)導入めいた一連の言葉がまずわからない。「こりゃ相当なリテラシーが要求されるな」と思った。
リトルボーイ的なもの」って、そこにダブルミーニングを見いだすことにどういう意味があるのか、単なるこじつけとしか思えない。しかしなんとなくわからなくもないというか、こじつけなのは承知の上で、そこに繋がりを見いだすというか、逆に定義づけのような形でその繋がりを何かの材料のように俎上に載せることによって見えてくるものがあるのかもしれないな、とは思った。結局のところ何が見えるのかはわからなかった、ということ。
次に、「話がかみ合ってない」と思った。これはぼくにリテラシーが足りないからだと思うが、話があちこちに飛んでいて、繋がりが全く見えなかった。これで互いに納得して和気藹々になる理由がさっぱり掴めない。特にブランド論の流れは完全に意味不明だった。リテラシーというよりも視野の問題なんだろうか……


ということで、以下、ろくに理解していないという前提の下で。
結局のところ、猪瀬氏(というか都)のモチベーションは「棚問題」であって規制ではない、とはいうものの、実際に審議会による恣意的な運用が可能で、条例の文章自体では規定しておらず、であるが故に出版社側は(資本主義下での会社組織として否応なく)自主規制を強めざるを得ず、それで食えなくなる作家が少なからず出てくる、という問題意識への解答にはまったくなっていないように見える。
しかし逆に考えると、現在の出版界での表現は商業主義に走りすぎ、エロければ売れるからもっとエロくしよう、ということでしかなく、その結果小学生に悪影響があるのであれば、そこには抑制が必要だ、というのもわかる。エロさだけで即物的に儲けても良いが、全年齢を巻き込むな、という趣旨だろう。おそらく「傑作」関連の言説もそのあたりが念頭にあるのではないかと思う。
都としては、「どんな言論表現も自由であり、出版差し止めなどはしない。しかしゾーニングは確実に」という立場なのだろう。
創作者側としては、「ゾーニング指定されると取次でも書店でも扱いが非常に小さくなり、ペイしなくなって生活できない」「ゾーニング指定されないために、作品内容自体を変更しなければならない」ということで、わりと実際的な問題ではある。


「両さんが普通の生活しか送れなくなる」問題で考えれば、もし「こち亀」が不適切だと審議会に判定された場合、秋本治氏および集英社には2つの選択肢があり、1つは「週刊少年ジャンプでの連載を諦め、内容そのままに(小口止めされた)青年誌に移る」、もう1つは「両さんに普通の生活を送らせて週刊少年ジャンプでの連載を続ける」。
前者の選択肢があるから表現の自由は損なわれていない、たとえ青年誌に移っても「傑作」であれば同等に売れるだろうし、それを求めないのは作家の怠慢、というのが都の論法だろうと思う。
後者は、はっきり言って論外だろう。そんな「こち亀」を誰が読みたいものか。実行されたが最後、いかに長寿連載といえどもあっというまに打ち切りになってしまうだろう。従って作品自体を終わらせない為には、前者を選ばざるを得なくなる。
しかし週刊少年ジャンプに比肩する発行部数の小口止めされた青年誌なんて存在するんだろうか。いかに傑作であろうとも、やはりメディア露出というのは重要だと思う。
「ジャンプ並の露出を持ち、創作者が生活できるだけのマネタイズが可能な、ゾーニングされたメディア」が存在しさえすれば解決する問題ではあるが、現時点で存在しない以上は、やはり条例によって食えなくなる作家が大量に発生することは想像に難くない。


漫画・アニメに限らず、小説・映画・演劇・音楽のような創作一般にすら限らず、スポーツやダンス、武術、科学技術など、あらゆる事柄でそうだと思うのだが、頂点の質は裾野の広さで決まると思う。
それに携わる人口が多ければ多いほど、トップレベルの人々が織りなす技は優れたものとなる。また、人々はそれを優れていると認め、産業として成り立っていく。
ゾーニングは、少なくともその裾野を切り取る。


そもそもゾーニング自体が、大人の、親のエゴである、というのも一面としてあるだろう。
後退する東京都の性教育 - Togetter
こういう状況は明らかに行き過ぎで、当の子供達のためにならない。
マトモに性教育を施さず、しかも性行為による被害から守ろうとするから、子供に対する過剰な表現摂取規制を施さざるを得なくなる。ちゃんと教育した上で与えればよい。例えば、中学校で確実に教育し、それが完了している15歳以上なら、何でも見て良い、ということもできるはず。ちゃんと教育していれば。
実際のところ中学校での保健体育の授業は機能していないだろう。自分の記憶でも、ほとんどスポーツだけが趣味だから体育教師になったような男が、似合わない照れ隠しをしつつぐだぐだとやっていたような印象しかない。少なくとも、体育と保健は切り離した方が良いと思うのだが……


とまぁ、あれこれ考えたけど結局どうすりゃいいんだかわからないなぁ……
銀の弾丸」になりそうなのは、

  • ジャンプ並の露出を持ち、創作者が生活できるだけのマネタイズが可能な、ゾーニングされたメディア
  • 小中学校でのマトモな性教育・暴力教育

あたりだろうけど、どちらも所詮はファンタジーの産物だろう。


後半ほとんど思想地図β関係ねぇな(´・ω・`)